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あれから10日が・・ [仕事]

大きな揺れ、それもいつになれば収まるのかわからない長い長い揺れ、段々揺れはひどくなり、PCが転がり、モニターが倒れた。建屋はギシギシと音をたてていた。これ以上揺れたら建物が倒壊するという恐怖感に襲われる。職場のメンバーは机の下へ隠れる者、ラックを抑えて転倒しないようにしているもの。私はドアを開けて避難路を確保したがそこから動けなくなった。物につかまらないと立っていられない。停電は14:49から始まった。まだ揺れ初めてすぐの時点だった。非常用発電機が動いた。が、バックアップしているのは心臓部だけ、部屋の明かりも消えた。暖房も止まった。トイレも使えない。女性に帰宅するように指示、「ぼくは?」とN君が帰りたさそうな顔をしていた。「そのまま続けて!」と指示。こんな時には頭が動かないと思う。指示をだしながら携帯で家族全員に「無事か?」とメールした。あせっていたので、その短いメールですらスムーズに入力できなかった。返信はしばらくなかった。1時間以上して家族の無事が分かる。「水槽は?」とメールしたら、また1時間以上して「無事、少し水がこぼれただけ、停電もしていない」ほっとする。震災直後は仕事を維持する事しか考えていなかった。関西と名古屋へ応援を依頼。すぐにフォローが始まった。家族へのメールの直後に九州の実家に無事の電話をいれる。このあと携帯電話はつながらなくなった。
電車も止まっている。帰宅困難者に仕事から離れでもらう。ホテルはすでに満杯。会社に泊まった人もいる。翌朝9時まで歩き続けた人もいた。東京メトロや私鉄は動いたが、JRは動かなかった。渋谷から歩いて帰ってきた非番のメンバーがいた。深夜勤務のメンバーが渋谷からバスを使って午前2時にやっと出てきた。停電は想定していたが、せいぜい分単位を考えていた。燃料がいつなくなるか予測がつかず、軽油の確保に大渋滞の中近所のGSでなんとか調達できた。停電すると暗いという事が結構圧迫感がある。余震も続き車酔いのような不快感を覚える。翌朝になると電車が動き出した。帰宅困難者は帰っていった。
朝のシフトメンバーが来て引継ぎを行い自宅へ帰った。仙台出身のリーダーは家族の無事は確認できたが、家はもう住めないと言っていた。この当事マグニチュード7.9という報道に阪神淡路とは桁違いの大災害が起きたと思った。その後なぜか基準をかえてM9.0と修正された。(これは想定外を補強するごまかしの始まりだった)情報がないというだけで被害が起きていないのではない。そうメンバーに言った。それでもその被害の実態はこの時覚悟したものよりとてつもなく大きく深刻だった。
歴史に残る大災害の始まりはこうだった。そして、この後日常生活は大きく変わってしまった。


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